Rodolphe Gasché, “The
Destruction of the Inalienable: Storytelling in the Age of Disaster”
承前
「物語は人間にとってファンダメンタルであるが、それはまた脆弱な基礎でもある。」
・
人間存在の基礎としての物語。
- 人間の根本的な条件としての「物語」を構想したのはシャップ(ならびにベンヤミンとアレント)の偉大な功績である。
・
しかし、この「物語」という基礎は、脆弱な基礎でもある。
- サバイバーのMutenessがわれわれに突きつけるのは、まさしくこの「物語」という基礎の脆弱さである。
* サバイバーのMuteness=物語る能力の破壊
- けれども、シャップ(ならびにベンヤミン、アレント)は、物語る能力という人間の条件が破壊されうるという自体を想定しなかった。彼らにとって、物語る能力が失われるという現象は、あり得ないことであった。その意味で、サバイバーのMutenessとは、「奪いえないものの破壊destruction of the
inalienable」なのである(“inalienable”という表現はベンヤミン「物語作者」より)。それは、起こりえないことが起こってしまったという現象である。
* ベンヤミンは、物語る能力は破壊不可能であると考えていた。
○ 【以下コメント】このことは、「物語作者」だけ読むと奇異に聞こえるかもしれない。このエッセイの冒頭で、物語る技術の「終焉」について触れられているからだ。
○ しかし、よく読むとベンヤミンは物語る技術が「終焉に向かいつつある」と述べている(だからまだ完全に終わってはいない)。そして、ベンヤミンにとって、物語がある個人の「記憶」と密接に結びついていることを考慮すれば、物語が完全に失われること、すなわち、その人物の人生が完全に忘却されて何も残らないという事態はおそらく想定されていない。
○ なぜならば、ベンヤミンが廃墟から歴史の天使が現れるというときの、その廃墟が(廃墟にまで成り下がったとはいえ)この物語の末路だからだ。つまり物語は破壊されて無に帰すのではなく、その残骸が堆積してアレゴリーになる。物語が破壊されたとしても、その残骸は廃墟を形成するのではないだろうか。(以上のベンヤミン理解は覚書作者のうる覚え。)
* (シャップと同様に)アレントも物語る能力が破壊されるという事態を想定していなかった。
○ これも『人間の条件』だけを念頭におくと奇妙に響くかもしれないが、ほかの著作をも含めてこの「物語」の問題を考慮すると、このように考えざるをえない。
【以下コメント】たしかに、『人間の条件』では、物語は「活動」とならんで公的領域を特徴づける要件であったので、その公的領域の消滅を指摘したアレントの立場は、物語る能力の喪失を考慮していたと読めるかもしれない。しかし、アレントの言う活動は「生まれたことnatality」と密接に結びついており、生まれたことからしてすでに活動として何らかの差異を世界に刻み始めるという考えは、シャップの言う、生まれた瞬間にすでに巻き込まれているという「物語」に対応するものであると見なせるだろう(以上のアレント理解もうる覚え)。
そのほか全般的な補足&コメント
・
「物語」概念の具体的な説明については、リクールとミシェル・アンリを参照とのこと(ただし、もう少しリサーチするとも述べていた)。
・
「語ることspeech」、「証言testimony, witnessing」、「物語storytelling」はそれぞれ異なる。
* 【コメント】ガシェの考察の対象は、哲学的文脈ではシャップ、ベンヤミン、アレントなのだが、物語る能力の喪失という具体的な現象として念頭にあるのは、Primo Levi、Tadeusz Borowski、Imre Kerteszらのホロコースト・サバイバーのテクストである(「回教徒」や「剥きだしの生」という表現もアガンベンではなく、レヴィに由来している)。とすると、これらサバイバーにとって、語ることspeechは可能だが、「物語」を語ることは不可能ということなのだろうか(「証言」は生き残っている限りにおいて不可能である)?
・
【コメント】Story(あるいはGeshichte)を「物語」と訳すと少しニュアンスが伝わりにくい。英語であっても、storyという言葉は次のように使われる。
Carol: I was raising a family
when I was 20 years old.
Dev: Wow, I definitely
couldn't have done that when I was 20. Would have been hard to support a family
on school credit that I was earning for my internship at Nickelodeon.There must
have been some fun times, though.
Carol: I once hitchhiked to
Atlantic City on an ice truck to see Sinatra.
Dev: See? That's a story. What
am I gonna tell my kids? "Oh, once my mom drove me to see Hootie and the
Blowfish."
Carol: You'll have stories, believe
me.
Dev: I hope so.
これは『マスター・オブ・ゼロMaster of
None』というアメリカのテレビ・ドラマの1シーンである。ここで主人公の男(Dev)はガールフレンドの祖母(Carol)と会話しているが、話題はその祖母自身の過去の武勇伝(=story)になる。これだけみても分かるように、「story」という言葉だけで、ある個人にとって忘れえぬ(unforgettable)重大な過去の出来事やあるいは人生そのものと密接に結びついているのが分かる。始まりと中間と終わりがあれば、それだけでStoryになるわけではないのである。
(ちなみに、このドラマはAziz Ansariというインド系の俳優を主演に据えているが、彼は『Parks and Recreation』というコメディで人気を博したコメディアンである。であるので、私はこの『マスター・オブ・ゼロ』も当然、コメディであろうと予想して見始めた。しかし、たしかに笑える部分もそれなりにあるのだが、全体の基調となっているのは、むしろ、ショービジネスの周辺でサバイブしているニューヨークの若者(あるいはもうすぐ「若者」を終えようとしている人々)の日常を描いたリアリズムであった。しかもかなり細かいニュアンスまでも表現しようとする種類のリアリズムである。このように、コメディアン主演のドラマが、人物の心情の機微まで描こうとするのは『ルイーLouie』の第4シーズンにも共通することなので、もしかしたらこれがコメディの新しい方向なのかもしれない(コミック・リアリズム?)。)