ロドルフ・ガシェによるセミナーが無事開催されました。
ヴィルヘルム・シャップに関する発表とその後に続いたディスカッションは、予定時間を大幅に超過し、会場の予約時間さえもオーバーしそうなほど盛り上がりました。
発表では、事前に配布された発表原稿にさらに細かな修正・発展が加えられており、発表後の参加者とのディスカッションでも、ガシェ氏が自らの思考をライブで展開させていくプロセスを間近にみることができました。
以下、セミナーからの覚え書きです(なので、私の主観的解釈が入り混じっています)。
※
今回のシャップ論は、ベンヤミン論、アレント論を含む物語の哲学論の序論部分と第一節である。ガシェ氏自身何度も断っていたが、まだ草稿段階(Work in progress)で、結論についてはこれから執筆する予定とのこと。(私は未完のベンヤミン論、アレント論も読ませていただいた。)
ガシェによるシャップ論(および物語の哲学)の背景をなすのは次のような問いである。
1.サバイバーの沈黙Mutenessに公正であるためには、それをどう考えればいいのか?サバイバーのMutenessにどう向き合うか?という問い。
a. ここではとくにホロコースト・サバイバーがその経験を語らない=語れないことが念頭におかれている。
b. サバイバーのMutenessを物語る能力の喪失とみる。
①
Silence(意図して語らないこと)ではなく、Muteness(語る力が失われていること)がサバイバーに起きている。
c. サバイバーが経験した暴力のひとつが、物語る能力を奪われたこと。(ただし、より正確に言えば、物語る能力自体が、経験の可能性の条件であるので、これは経験とさえ呼べない暴力でもある)。
2.ハイデガー(プラトン)への疑問
a. ハイデガーは、存在について物語を語ってはならないとしたが(『存在と時間』第二節)、そもそも物語を語る能力が奪われていたとしたら?
①
If
we are to understand the problem of Being, our first philosophical step
consists in not μûθóν τινα διηγεîσθαι, in not 'telling a story'—that is
to say, in not defining entities as entities by tracing them back in their
origin to some other entities, as if Being had the character of some possible
entity.(これはプラトン『ソフィスト』への言及)
1.
近年の物語批判の文脈からすれば、ハイデガー(およびプラトン)による物語ることの禁止は、物語の限界(および暴力)の指摘として当然視されるかもしれない。しかし、ここでガシェが注目するのは、むしろ、この指摘においてすでに前提とされている物語る「能力」である。つまり、ハイデガーによるこの禁止は物語ることが可能であっても、その能力をあえて行使してはならないという要求である。
2.
物語を暴力的な変換として批判するとしても、その物語る能力はまだ前提とされている。物語が批判するに値するのは、物語る能力自体が堅固なものとしてつねに想定されているからである。
3.
しかし、そのように堅固な「物語る能力」が破壊されるという事態が起こりうるとしたら?
これらの問いから、ガシェによる「物語る能力」の探求がなされている。
以下続く。