2016年10月8日土曜日

ガシェ・セミナーの覚え書き(その3)

Rodolphe Gasché, “The Destruction of the Inalienable: Storytelling in the Age of Disaster”


承前


物語は人間にとってファンダメンタルであるが、それはまた脆弱な基礎でもある。

   人間存在の基礎としての物語。

Ø  物語に「絡め取られる、巻き込まれる」ことによって、人間は「相互関係の網目Web of interrelationships」に参与する。

Ø  しかし、このことはあらかじめ存在していた自我や主体が、自らを確立したあとで、物語の世界に加わることを意味するのではない。

Ø  そうではなく、「自我」、「主体」、あるいは「人間」などがそもそも成立するのは、「物語に巻き込まれる」ということが起こった瞬間である。物語は自我に対して外在的ではない。

Ø  この意味で、物語は人間にとってファンダメンタルである。それは「人間」なるものの可能性の条件である。人間とはHomo Narrantis and Narratumである。

²  このとき、ある個人が巻き込まれる物語は一つではなく、複数あり、その複数性が物語に巻き込まれてある者の自由を保証することになる。逆に言えば、一つの物語のみに巻き込まれることは、暴力であり抑圧的である。

Ø  このように人間の根本的な条件としての「物語」を構想したのはシャップ(ならびにベンヤミンとアレント)の偉大な功績である。

²  (補足1)先に挙げたように、問題はサバイバーのMuteness,つまりこの「人間」の条件としての「物語」を語る能力を失うという現象なのだが、ガシェの論考は、そのような「人間の条件」を満たすことができなくなってしまう状況についての検討へは進まない。つまり、この「人間」ならざるもの(つまり「剥きだしの生」)が、「何」かという説明へは進まない。むしろ、この「物語」という人間の基礎のさらなる詳細な検討、とくにその脆さの検討に進む(すくなくとも現時点の草稿ではそうみえる)。

²  (補足2)この「剥きだしの生」に関して、アガンベンとの関連がどうしても気になってしまうが、ガシェ氏本人によれば、この草稿を書いた時点ではまだ読んでいないとのことだった。ベンヤミンとアレントについて論じているので、両者から多くものを引き継いでいるアガンベンをあえて参照する必然性をあまり感じなかったが、(多くの人がアガンベンについて聞いてくるので?)これから読むと述べていた(どの著作とは明言しなかったが、おそらく『アウシュヴィッツの残りもの』や『ホモ・サケル』だろう)。

   しかし、この「物語」という基礎は、脆弱な基礎でもある。



以下続く