岡田康佑「“A Tone of Triumph Mixed with Horror”—̶Nathaniel Hawthorne, “Rappacciniʼs Daughter”における「見る」ことと「見られる」こと」 豊田祥瑚「「男は行為、女は言葉」—̶ ホーソーン「ラパチーニの娘」における言葉と毒」
川﨑智代 「迷う男、反撃する女—̶Nathaniel Hawthorne, “The Birthmark”における炉の表象から」
田中斗望「笑うアミナダブ—̶ Nathaniel Hawthorne, “The Birthmark”の結末をめぐって」
-けれども、シャップ(ならびにベンヤミン、アレント)は、物語る能力という人間の条件が破壊されうるという自体を想定しなかった。彼らにとって、物語る能力が失われるという現象は、あり得ないことであった。その意味で、サバイバーのMutenessとは、「奪いえないものの破壊destruction of the
inalienable」なのである(“inalienable”という表現はベンヤミン「物語作者」より)。それは、起こりえないことが起こってしまったという現象である。
Carol: I was raising a family
when I was 20 years old.
Dev: Wow, I definitely
couldn't have done that when I was 20. Would have been hard to support a family
on school credit that I was earning for my internship at Nickelodeon.There must
have been some fun times, though.
Carol: I once hitchhiked to
Atlantic City on an ice truck to see Sinatra.
Dev: See? That's a story. What
am I gonna tell my kids? "Oh, once my mom drove me to see Hootie and the
Blowfish."
Carol: You'll have stories, believe
me.
Dev: I hope so.
これは『マスター・オブ・ゼロMaster of
None』というアメリカのテレビ・ドラマの1シーンである。ここで主人公の男(Dev)はガールフレンドの祖母(Carol)と会話しているが、話題はその祖母自身の過去の武勇伝(=story)になる。これだけみても分かるように、「story」という言葉だけで、ある個人にとって忘れえぬ(unforgettable)重大な過去の出来事やあるいは人生そのものと密接に結びついているのが分かる。始まりと中間と終わりがあれば、それだけでStoryになるわけではないのである。
(ちなみに、このドラマはAziz Ansariというインド系の俳優を主演に据えているが、彼は『Parks and Recreation』というコメディで人気を博したコメディアンである。であるので、私はこの『マスター・オブ・ゼロ』も当然、コメディであろうと予想して見始めた。しかし、たしかに笑える部分もそれなりにあるのだが、全体の基調となっているのは、むしろ、ショービジネスの周辺でサバイブしているニューヨークの若者(あるいはもうすぐ「若者」を終えようとしている人々)の日常を描いたリアリズムであった。しかもかなり細かいニュアンスまでも表現しようとする種類のリアリズムである。このように、コメディアン主演のドラマが、人物の心情の機微まで描こうとするのは『ルイーLouie』の第4シーズンにも共通することなので、もしかしたらこれがコメディの新しい方向なのかもしれない(コミック・リアリズム?)。)