2020年4月13日月曜日

『なえうす』第3号

『なえうす』の第三号ができました。
今回は、7人もの執筆者がいて盛りだくさんです。
『なえうす』第3号

今までは古典的なアメリカ文学が多かったのですが、フォークナーやサリンジャーなど、今号は20世紀の作品が主です。
執筆者はみな大学3、4年生なので、1,2年生が大学で初めて文学のレポートを書くときのよいお手本になると思います。
ぜひご一読ください。
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目次
わからないものを裁く  ホークショーの飛翔                                           
William Faulkner, “Dry September”をめぐって
板部泰之                                                                                                                                             
救われたホールデン、救われなかったシーモア                                          
J. D. Salinger, “A Perfect Day for Bananafish”における子供の役割
中村光汰
「ぼく」は電話をかけるのだろうか?                                                                     
レイモンド・カーヴァー「ぼくが電話をかけている場所」について
相村里和
重力と解放                                                                                                                             
Tim O’Brien, “The Things They Carried” における現実と想像力
井関耕大
「群衆」、あるいは走り回る仮面                                                                              
エドガー・アラン・ポー「群衆の人」における主体性の問題
斉藤海央
少女は歩み続ける                                                                                                                  
Sarah Orne Jewett, “A White Heron”について
塘内彩月
人生の旅、旅の人生                                                                                                  
John Cheever, “The Swimmer”について
平松昂

2018年4月13日金曜日

『なえうす』第2号

前回の投稿から一年以上たっていました・・・。
ブログって大変ですね。続ける人に対する見方が変わりました。


が、そうこうしているあいだに『なえうす』の第二号もできあがりました。


『なえうす』第2号


今回も力作揃いです。

大学院生の論文集というのは、どこの大学院でもあると思いますが、学部生の論文集というのは珍しいので、ぜひご一読ください。

以下、目次です。

今年もホーソーンが多くなっていますが、なんとダンテ論もあります。




The Equality of Sin
“Ethan Brand,” or the Unpardonable Sinner
 Rachel Quah                                                                                                                                                                             

罪ある幸福、幸福なき救い
— Reuben Bourneにとっての“Roger Malvin’s Burial” 
白井大智                                                                                                                                                                                

目に見えない心の壁
— Nathaniel Hawthorne, “The Minister’s Black Veil”について 
神前梨理子                                                                                                                                                                              

ダンテ『神曲』の小説性 
新井智也

                                                                                                                                                                                 

2016年10月31日月曜日

『なえうす』創刊


雑誌をはじめした。
オンライン・ジャーナルです。


論集『なえうす』


第一号の目次です。

河野咲子「ベレニスという幻想—「反転」の時間を問いなおす」

岡田康佑「“A Tone of Triumph Mixed with Horror”—̶Nathaniel Hawthorne, “Rappacciniʼs Daughter”における「見る」ことと「見られる」こと」

豊田祥瑚「「男は行為、女は言葉」—̶ ホーソーン「ラパチーニの娘」における言葉と毒」

川﨑智代 「迷う男、反撃する女—̶Nathaniel Hawthorne, “The Birthmark”における炉の表象から」

田中斗望「笑うアミナダブ—̶ Nathaniel Hawthorne, “The Birthmark”の結末をめぐって」





大学院生の雑誌というのは、どこでもよくやっていて、私も昔は自分が書いた論文を載せてもらっていたものですが、(いわゆる同人誌は別として)学部学生の雑誌というのは今までなかったし、せっかく授業でよく書けたレポートを提出してもらっても、どこにも発表する機会がなくてもったいないと思っていたので、自分で編集して出すことにしました。紙媒体だったらやろうとは思いませんでしたが、ネット上だと簡単にできると思ったし、やってみたらやはり簡単でした。これからも続けていきたいと思います。

創刊号は文学批評のみ、しかもすべてアメリカ文学ですが、とくにそれだけに限定はしないつもりです。展開次第では、学術論文だけではなく、創作や翻訳も載せるかもしれません。扱う対象も、文学以外のテクストや作品にも広げていきます。









2016年10月17日月曜日

ガシェ・セミナーの覚え書き(その4)

Rodolphe Gasché, “The Destruction of the Inalienable: Storytelling in the Age of Disaster”

承前

「物語は人間にとってファンダメンタルであるが、それはまた脆弱な基礎でもある。」
   人間存在の基礎としての物語。
- 人間の根本的な条件としての「物語」を構想したのはシャップ(ならびにベンヤミンとアレント)の偉大な功績である。
   しかし、この「物語」という基礎は、脆弱な基礎でもある。
- サバイバーのMutenessがわれわれに突きつけるのは、まさしくこの「物語」という基礎の脆弱さである。
* サバイバーのMuteness=物語る能力の破壊
-  けれども、シャップ(ならびにベンヤミン、アレント)は、物語る能力という人間の条件が破壊されうるという自体を想定しなかった。彼らにとって、物語る能力が失われるという現象は、あり得ないことであった。その意味で、サバイバーのMutenessとは、「奪いえないものの破壊destruction of the inalienable」なのである(“inalienable”という表現はベンヤミン「物語作者」より)。それは、起こりえないことが起こってしまったという現象である。
 ベンヤミンは、物語る能力は破壊不可能であると考えていた。
 【以下コメント】このことは、「物語作者」だけ読むと奇異に聞こえるかもしれない。このエッセイの冒頭で、物語る技術の「終焉」について触れられているからだ。
   しかし、よく読むとベンヤミンは物語る技術が「終焉に向かいつつある」と述べている(だからまだ完全に終わってはいない)。そして、ベンヤミンにとって、物語がある個人の「記憶」と密接に結びついていることを考慮すれば、物語が完全に失われること、すなわち、その人物の人生が完全に忘却されて何も残らないという事態はおそらく想定されていない。
   なぜならば、ベンヤミンが廃墟から歴史の天使が現れるというときの、その廃墟が(廃墟にまで成り下がったとはいえ)この物語の末路だからだ。つまり物語は破壊されて無に帰すのではなく、その残骸が堆積してアレゴリーになる。物語が破壊されたとしても、その残骸は廃墟を形成するのではないだろうか。(以上のベンヤミン理解は覚書作者のうる覚え。)
 (シャップと同様に)アレントも物語る能力が破壊されるという事態を想定していなかった。
   これも『人間の条件』だけを念頭におくと奇妙に響くかもしれないが、ほかの著作をも含めてこの「物語」の問題を考慮すると、このように考えざるをえない。
【以下コメント】たしかに、『人間の条件』では、物語は「活動」とならんで公的領域を特徴づける要件であったので、その公的領域の消滅を指摘したアレントの立場は、物語る能力の喪失を考慮していたと読めるかもしれない。しかし、アレントの言う活動は「生まれたことnatality」と密接に結びついており、生まれたことからしてすでに活動として何らかの差異を世界に刻み始めるという考えは、シャップの言う、生まれた瞬間にすでに巻き込まれているという「物語」に対応するものであると見なせるだろう(以上のアレント理解もうる覚え)。


そのほか全般的な補足&コメント

   「物語」概念の具体的な説明については、リクールとミシェル・アンリを参照とのこと(ただし、もう少しリサーチするとも述べていた)。

   「語ることspeech」、「証言testimony, witnessing」、「物語storytelling」はそれぞれ異なる。
 【コメント】ガシェの考察の対象は、哲学的文脈ではシャップ、ベンヤミン、アレントなのだが、物語る能力の喪失という具体的な現象として念頭にあるのは、Primo LeviTadeusz BorowskiImre Kerteszらのホロコースト・サバイバーのテクストである(「回教徒」や「剥きだしの生」という表現もアガンベンではなく、レヴィに由来している)。とすると、これらサバイバーにとって、語ることspeechは可能だが、「物語」を語ることは不可能ということなのだろうか(「証言」は生き残っている限りにおいて不可能である)?

   【コメント】Story(あるいはGeshichte)を「物語」と訳すと少しニュアンスが伝わりにくい。英語であっても、storyという言葉は次のように使われる。
Carol: I was raising a family when I was 20 years old.
Dev: Wow, I definitely couldn't have done that when I was 20. Would have been hard to support a family on school credit that I was earning for my internship at Nickelodeon.There must have been some fun times, though.
Carol: I once hitchhiked to Atlantic City on an ice truck to see Sinatra.
Dev: See? That's a story. What am I gonna tell my kids? "Oh, once my mom drove me to see Hootie and the Blowfish."
Carol: You'll have stories, believe me.
Dev: I hope so.

これは『マスター・オブ・ゼロMaster of None』というアメリカのテレビ・ドラマの1シーンである。ここで主人公の男(Dev)はガールフレンドの祖母(Carol)と会話しているが、話題はその祖母自身の過去の武勇伝(=story)になる。これだけみても分かるように、「story」という言葉だけで、ある個人にとって忘れえぬ(unforgettable)重大な過去の出来事やあるいは人生そのものと密接に結びついているのが分かる。始まりと中間と終わりがあれば、それだけでStoryになるわけではないのである。


(ちなみに、このドラマはAziz Ansariというインド系の俳優を主演に据えているが、彼は『Parks and Recreation』というコメディで人気を博したコメディアンである。であるので、私はこの『マスター・オブ・ゼロ』も当然、コメディであろうと予想して見始めた。しかし、たしかに笑える部分もそれなりにあるのだが、全体の基調となっているのは、むしろ、ショービジネスの周辺でサバイブしているニューヨークの若者(あるいはもうすぐ「若者」を終えようとしている人々)の日常を描いたリアリズムであった。しかもかなり細かいニュアンスまでも表現しようとする種類のリアリズムである。このように、コメディアン主演のドラマが、人物の心情の機微まで描こうとするのは『ルイーLouie』の第4シーズンにも共通することなので、もしかしたらこれがコメディの新しい方向なのかもしれない(コミック・リアリズム?)。)


2016年10月8日土曜日

ガシェ・セミナーの覚え書き(その3)

Rodolphe Gasché, “The Destruction of the Inalienable: Storytelling in the Age of Disaster”


承前


物語は人間にとってファンダメンタルであるが、それはまた脆弱な基礎でもある。

   人間存在の基礎としての物語。

Ø  物語に「絡め取られる、巻き込まれる」ことによって、人間は「相互関係の網目Web of interrelationships」に参与する。

Ø  しかし、このことはあらかじめ存在していた自我や主体が、自らを確立したあとで、物語の世界に加わることを意味するのではない。

Ø  そうではなく、「自我」、「主体」、あるいは「人間」などがそもそも成立するのは、「物語に巻き込まれる」ということが起こった瞬間である。物語は自我に対して外在的ではない。

Ø  この意味で、物語は人間にとってファンダメンタルである。それは「人間」なるものの可能性の条件である。人間とはHomo Narrantis and Narratumである。

²  このとき、ある個人が巻き込まれる物語は一つではなく、複数あり、その複数性が物語に巻き込まれてある者の自由を保証することになる。逆に言えば、一つの物語のみに巻き込まれることは、暴力であり抑圧的である。

Ø  このように人間の根本的な条件としての「物語」を構想したのはシャップ(ならびにベンヤミンとアレント)の偉大な功績である。

²  (補足1)先に挙げたように、問題はサバイバーのMuteness,つまりこの「人間」の条件としての「物語」を語る能力を失うという現象なのだが、ガシェの論考は、そのような「人間の条件」を満たすことができなくなってしまう状況についての検討へは進まない。つまり、この「人間」ならざるもの(つまり「剥きだしの生」)が、「何」かという説明へは進まない。むしろ、この「物語」という人間の基礎のさらなる詳細な検討、とくにその脆さの検討に進む(すくなくとも現時点の草稿ではそうみえる)。

²  (補足2)この「剥きだしの生」に関して、アガンベンとの関連がどうしても気になってしまうが、ガシェ氏本人によれば、この草稿を書いた時点ではまだ読んでいないとのことだった。ベンヤミンとアレントについて論じているので、両者から多くものを引き継いでいるアガンベンをあえて参照する必然性をあまり感じなかったが、(多くの人がアガンベンについて聞いてくるので?)これから読むと述べていた(どの著作とは明言しなかったが、おそらく『アウシュヴィッツの残りもの』や『ホモ・サケル』だろう)。

   しかし、この「物語」という基礎は、脆弱な基礎でもある。



以下続く